(6) MMMC―2

父が入院中一番辛かったのは、英語がわからず不安だったことだったろうが、ずいぶん後になっても思い出としてよく言っていたのが、食事のまずさである(笑)回復し始めてからは、いわゆる脳梗塞後遺症の嚥下困難というようなことは、父の場合はなかったので、ちゃんと固形物が食べられたが、ともかく父に言わせれば、何もかもが何の味もないのだそうだ。心臓に問題がある(不整脈)ので、塩分制限が必要なのは仕方がないが、それが徹底しており、はっきりとした数値は忘れてしまったが、日本の通常の塩分制限食よりはるかに厳しいそうだ。そして、糖尿病の治療のため、当然のことながらカロリー制限もある。ただし、これに関しては日本とアメリカの平均体格の差なのだろうか、日本では糖尿病対策では普通1500〜1600Kcalくらいのところが、MMMCでは2000Kcalという甘さだった。アメリカ人が通常いかにカロリーをたくさん摂っているかがうかがい知れる一事である。これをすべて平らげてしまったとしたら、むしろカロリーオーバーになってしまうところだ。その意味から言えば、不味すぎて全部は食べられないことがかえってよかったのかも知れない。いずれにせよ油分は控えてあるので、すべての物がパサパサして、その上塩分がほとんどなしときているので、非常に食べにくいものだったそうである。それでも、スクランブルエッグ、コーンフレーク、トーストなどは美味しいと言っていた。

面白いのは、少ない選択肢ではあるが、メニューが選べることである。食事のときに、次回の食事のメニューが書かれた写真のような紙がトレイにのっていて、選択肢に印をつけて返すと、次回はそれに従ったメニューが運ばれてくるという仕組みである。患者の症状に合わせた注意事項は緑色のシールで明示されている。父の場合は、飲み込みやすいように食品を小さくカットすることという"CHOPPED"という指示が見える。もうひとつの"VIT. K WATCH"というのは、「ビタミンKに注意」という意味である。父は前述の通り、ワーファリンという血液抗凝固剤を服用しているのだが、ビタミンKはこの薬の効果を消してしまうために、ビタミンKを含む食材を使わないようにという指示なのだ。実は、これは父の帰国後に母が最も頭を痛めた食材制限でもある。納豆、海藻類、ブロッコリー、ほうれん草などがビタミンKを多く含む食品とされる。まあ、ハワイで納豆が出ることはないので、あまり病院食としては問題ないが、日本の家庭料理でよく使われる食品がダメなのは辛いところだ。

入院以来、父は「中心静脈カテーテル」(略称セントラル)というものを装着していた。これは食事での栄養摂取が十分でない患者に、心臓近くの静脈にカテーテルを挿入し、そこから高カロリー輸液、栄養素、水分を補給するものだ。つまり胸あたりに穴をあけてあるわけだが、このカテーテルが24日頃はずされることになった。このことは、本当に父が回復したんだなぁと思わせる出来事であった。

私は午前中から病院にいくのが日課で、昼は義兄に交代してもらい、病院の売店でサンドイッチとミネラルウォーターを買って、病院の中庭でブーゲンビリアなどを眺めながら食べることにしていた。病院の冷房がきつく、父も寒がっていたし、私も中庭に出るとほっとしたものだ。

折りしも時はシドニー・オリンピック。ハワイでは中継録画だったが、陸上競技ファンの父は、高橋尚子選手の金メダルをことのほか喜んでいた。病室にはベッドの足元の方の天井に、テレビが据え付けられており、手元のリモコンで自由に見ることができ、無料であった。日中はなるべくベッドにいないで、病室内なら椅子に腰掛けているように、また、なるべく身体を動かすようにという指示があるので、病院の玄関あたりまで散歩をしたり、中庭に出たりもしたが、父が初めてのハワイで目にしたものは結局病院だけだったということが、なんとも残念である。父のこの頃の状態はすでに、ゆっくりではあるが問題なく歩け、言語機能も完全に回復し、わずかに左手の小指が痺れているというだけであった。ただし数値的には血糖値が相当高い日もあり、インスリン投与の治療は続く。

ここはフレームページです。左側にメニューが表示されていない場合は、こちらをクリックしてください。