ごった煮

日本語にまつわるあれやこれや、日頃思っていることをアトランダムに書き連ねて行きます。

外来語の表記すぐキレる子供花落ち自分らしく喪中葉書お休みをいただくカオンジあたたかい目で見守って手垢のついた言葉省エネ質問画像・映像の氾濫報道の品格決まりきった言い回し落し紙

 外来語の表記に不満がある。母音体系の異なる外国語の音をすべてカタカナで書き表すのは不可能ではあるが、それでも国際化国際化と誰もが唱え、外国語教育の重要性が叫ばれている現在、もう少しなんとかならないものか。日本語を母語とする者にとって苦手とされるBとVの区別だけでも、「ヴ」という文字がせっかく存在するのだから、これを使わない手はない。ところが中等教育ではこの「ヴ」の文字が使われていないらしい。「ベートーベン」というカタカナから、いったいどれだけの人が正しいアルファベットの綴りを想像できるだろうか。ある友人がフランスの作家Nervalの作品の翻訳をし、青少年向けのシリーズの一環として出版することになった。ところが、我々の間では当たり前の「ネルヴァル」という表記が使えないというのだ。「ネルバル」か「ネルバァル」にしてくださいと出版社側から要請されたとのこと。「バ行」と「ヴァ行」の表記を区別もしないで、BとVをちゃんと発音し分けなさいというほうが無理があろうというものだ。そして、くだけた表現でときどき見かける「あ゛」などという文字を発明する言語感覚のある世代の人たちに、ぜひLとRの区別ができるカタカナ表記も考案してもらいたい。
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 すぐキレる子供が増えているという。なぜ近年そういった傾向が顕著なのかについては様々な角度から議論がなされているが、一素人の考えとして「言語能力の未発達」にも一因があるのではないかと思われてならない。生まれたばかりの赤ん坊は言葉をしゃべれないから、自分の欲求や感情を伝えるためには泣くしか手段がない。赤ん坊は徐々に言語経験を積むことによって、言葉で伝えるという術を身につけ、同時に自分の感情を頭の中で言語的に整理できるようになって行く。キレる子供は、言語能力が未発達なために、自分の感情(とりわけ、怒り、悲しみ、軽蔑といった負の感情)を分析整理できず、赤ん坊が泣くしかないように、爆発させるしかないのではないか。言語能力といっても、なにも漢字の書き取りが得意だというようなことをさすわけではない。読んだり、聞いたり、人と会話したりすることによって自然と習得されるはずの能力である。核家族化や親の不在、テレビやゲームといった一方的な情報の受信、子供にとって言語能力を磨くべき場が失われつつある。平たく言えば、言葉のやりとりに慣れていない子供が多くなっているということである。「おとなしい子がキレる」という現象は、このことを端的に物語っているのではないだろうか。
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 花落ちという言葉の響きがきれいだと思う。時節柄、蜜柑の話題が各方面で取り上げられており、「蜜柑の皮をどちら側からむくか」というアンケートなどもよく目にする。数日前、某紙で、蜜柑の「ヘタ」側と「おしり」側という表現が用いられていて、その「おしり」について、もっときれいな表現はないのだろうかと周囲で話題になった。「花落ち」という言葉があるのではないかと、私が言うと、誰もそれは聞いたことがないと言う。自分自身も不安になり、帰宅してからネットで調べてみると、果実のヘタとは反対側の部位を指す言葉として「花落ち」が広く使われていることが確認できた。試しに広辞苑を引くと、「花落ち」は花が落ちてすぐ収穫できる「きゅうり」や「なす」そのものを指す言葉だという説明があり、「ヘタ」の反対側を指すとは書かれていない。果樹農家などから広まった言葉なのだろうか、出所を知りたいものだ。ともかく、それほど珍しい表現でないならば、新聞たるもの「おしり」などと書かないで、素敵な言葉を紹介すればよいものを、と思ったのであった。(2002.12.17)
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 自分らしく、という表現が一種のはやり言葉になってしまっているが、聞くたびにとても不愉快になる。気軽にこの言葉を口にする人は、いったい何を称して「自分」だと言うのか。「自分とは何か」という問いは、答えなど永遠に出るものではない。古今東西の哲学者が、まさにこれを命題としてきている。ましてや判断力の未熟な段階の者が「これは自分らしくない」と、どうして決められるだろう。せいぜい「自分の好みではない」という印象にすぎないのではないだろうか。いっそのこと、「面倒なことはやりたくない」とか「努力なんてしたくない」とか「嫌なことはいっさいしたくない」とはっきり言ったほうがよい。「自分らしく」などという口当たりの良さそうな言葉で自分の幼さをごまかすな、と言いたい。前途にある多種多様な選択肢のひとつを選びとるための判断力と、模索をいとわない精神力が備わったなら、大きな声で「自分らしく生きたい」と言ってほしい。(2003.5.17)
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喪中葉書を今年は用意しなくてはならなくなった。手製にしようと文面を考え始めて、最初の一文でハタと考え込んでしまった。よそ様からいただくものや、折込チラシの印刷見本、文例集などを見ると、多いのが「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」というもの。「年末年始」の部分は「年頭」だったり「新年」だったりもする。引っかかるのは「ご遠慮申し上げます」の部分だ。複数の辞典を参照した結果、「遠慮」は「自分の行為をさし控えること」の意味と、「他人の行為を断る」意味との双方に用いられることがわかる。「ご挨拶をご遠慮申し上げます」は「自分から挨拶するのをさし控える」意味で使う例だとは思うのだが、どうもこれが私には「年賀状をいただくのを遠慮したい」というニュアンスにとれて仕方がないのだ。人様に年賀状を出さないでくれとお願いするのだとしたら、これは失礼きわまりないわけで、結局私はこの文面は使わないことにした。日本語文法的には何ら問題のない文なのかも知れないが、他人がしてくれる行為に対して「遠慮しとくわ」などという表現が一般的になってきている現在、どうもしっくり来ない文に思える。多くの人がこの文に違和感を覚えないとすれば、自分の日本語に対する感性にも少々自信がなくなってしまう。(2003.11.21)
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 お休みをいただく、という言葉をよく耳にする。顧客としての立場で、どこかへ電話をかけ、「○○さんをお願いしたいのですが」と言うと、「申し訳ありません。本日○○はお休みをいただいております」と返ってくる、例のお決まりの表現のことである。通常出社しているはずなのに、○○さんの個人的な理由で休んでいる場合も、従業員が交代で曜日をずらして定休をとっている場合もある。前者はともかく、後者はどうも納得できない。週休をとるのは労働者の権利であり、会社からありがたく頂戴するものではないはずだ。いや待てよ、いったい「いただく」というのは「誰から」いただく意味なのだろう?会社から?顧客から?日本語のこういう曖昧さは時として責任の在り処をうやむやにさせてしまう。もちろん、せっかく連絡をくれた客に対して、担当者がいなくて申し訳ないという気持ちをあらわした言葉だということは理解できるのだが、こうまでへりくだる必要があるのかと思ってしまう。おそらく社員研修の電話応対マニュアルで、そう言うべきだと教育されてのことだろうが、誰も気にならないのだろうか。形の上では週休○日を掲げていても、実際に無報酬で休日出勤を強いられている友人が周囲に多いので、余計に最近この言葉が気になるのだった。これと同様、「させていただく」という表現を実に多く見聞きする。あるスーパーでの張り紙に、「パンの品質保持のため、照明を消させていただいております」とあって、思わず笑ってしまった。「消しております」で良いではないか。(2003.12.12)
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 カオンジ、と耳で聞いたときには、まずどんな漢字を思い浮かべるだろう。お寺の名前ではない(笑)「加温時」である。先日買った缶飲料の缶を眺めていて「加温時にはヤケドにご注意ください」と書かれていたのが、ふと気になったのである。話し言葉で「加温時」を使うことは極めて稀で、おそらく「温める時」といった言い方をするはずだ。「加温」は大辞林(第二版)にはすでに収録されているが、広辞苑(第五版)ではまだのようだ。機器メーカーなどでは広く使われている言葉だが、一般的には浸透途上ということだろう。缶のパッケージへの注意書はスペースも限られ、また一読して内容を理解してもらえる表記が求められることから、こういう書き方になったのだろう。耳で聞いただけでは違和感があった「カオンジ」も、漢字で書かれているのを読んだ場合は、ひと目で意味が理解できる。表意文字である漢字の威力だなとつくづく思う。かなり前のことだが、道路標識か何かの認識速度で、日本人が漢字で書かれたものを認識するのと、英語圏の人が英語で書かれたものを認識するのでは、前者が圧倒的に速いという結果が出たと、どこかで読んだ記憶がある。漢字文化の国に生まれてよかったと、あらためて思ったものだ。(2004.1.3)
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あたたかい目で見守って、という言葉が気になって仕方がない。最初に断っておくが、最近この言葉を頻繁に使っている特定の人を責める意図はまったくないし、発言している気持ちも十分わかる。けれども、日本語としてはどうかな?という疑問が頭から消えないのだ。「あたたかい目で見守っていただいて嬉しい」ならば、何も問題はない。気になるのは「あたたかい目で見守っていただきたい」と、希望を述べる場合である。「あたたかい目」は求めるものではなく、人が自分に向けてくれた態度について、感謝の気持ちをこめて評価する言葉ではないのか?私には、「どうぞ私に親切にしてください」と言っているのと同じように感じられるのだ。とは言え、「そっとしておいてください」、「騒がないでください」と、言うわけにはいかないだろうから、こういう表現になるのだろうということも理解できる。何か良い言い換えはないものだろうかと考えてみるのだが、なかなか適切な表現が思いつかない。(2004.7.19)
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手垢のついた言葉は、どうすればよいのだろう。メディアの発達した近年は、流行語というものが次々に生まれる。もともとは極めて日常的な言葉だったものが狭い意味に限定されたある種の価値をもってとらえられる言葉に変貌してしまう。その結果、普通に使いたいのに普通に使えない言葉がどんどん増えてくる。例えば「感動した」などというのが、これにあたる。「某国首相じゃあるまいし」などという反応になってしまうのだ。時がたつにつれて手垢は薄れてくるが、それまでは使いにくい言葉であり続ける。筆者が高校生の時の話。卒業式の答辞の文面に、「走馬灯のように」という言葉が含まれていた。この言葉が流れた途端、講堂に集まった生徒たちのあちこちから「キャーッ」という叫び声が上がった。この「キャーッ」は、アイドルタレントに向けるのと同じ性質のものである。当時人気のあったバンドのヒット曲の歌詞に「走馬灯のように」という一節があり、このイメージに反応した結果だったのだ。厳粛な雰囲気の卒業式に、不思議な空気が流れたのを今でも覚えている。筆者もそのバンドのファンであったから、「キャーッ」のクチであったが、この言葉は当分使えないなと感じもした。時が流れ、今ではこの言葉の手垢は消えたようだが、私の中ではまだパブロフの犬の反応が残っている。こうやって、使いにくい言葉がどんどん増えていき、息苦しくなることもある。詩人のように、言葉を紡ぐ立場の人たちは、どうやってこれと戦っているのだろうと気になりもする。(2004.8.15)
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省エネ質問だなあと思うことがないだろうか。省エネと言っても良い意味ではない。アテネ・オリンピックたけなわのこの時期、TVでは連日様々なインタビューを聞く機会があり、問いかけ方の優劣がとりわけ目立つ。アナウンサーという職業の人はさすがにしっかり教育を受けているのだろう、インタビュー内容はともかく、話し方で気になる場面はそう多くない。先日、モータースポーツ番組を見ていて、番組進行係を務めるタレントさんの質問の仕方がとても耳についた。ゲストの人に向かって例えば「ここは難しいコースだと言われていますが?」と問いかけている。つまり、尋ねたい主節を省略してしまった省エネ質問なのだ。おそらく「言われていますが」のあとには、「どこが勝敗の分かれ目になりますか?」とか、「オーバーテイクするポイントはあるのでしょうか?」とか、本来何か続くはずである。こういう質問の仕方は、文章が短くなるので、スマートに聞こえないこともないが、答えてくれる相手にうまく伝わらないことも多いのだ。尋ねたいことと、答えのポイントがずれてしまう場面がしばしば見られる。質問の意図の判断を、答える側に委ねてしまうのは、やはり不親切だと思うのだが、いかがだろうか。(2004.8.18)
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画像・映像の氾濫は、感性を鈍らせる側面もあると最近思う。運転しながらラジオを聴いていたら、「2時間待っただけの甲斐があったね」というCMの台詞が流れてきて、ふと違和感を感じた。「2時間待った甲斐があったね」や、「2時間待っただけの値打ちがあったね」ならおかしくないが、「…だけの甲斐」は、ちょっと変だ。ところが、このCMはテレビでも頻繁に流れているものなのに、映像つきで聞いていたときには、なんとなく聞き流してしまい、ひっかかりを覚えなかったのだ。私はこのことに少なからずショックを受けた。画像・映像というものは確かに情報量が豊富で、視覚に直接うったえかけるものであるから、それを情報伝達の手段として用いることには大きなメリットがある。けれども、だからこそ逆に、文字や言葉のインパクトを弱め、それらの意味をきちんと伝えられなくしてしまうデメリットもあるのではないだろうか。画像や映像なしの情報をもっと大切にしないと、想像力は養われないし、言葉に対する感性は次第に鈍化していってしまうだろう。文字だけの本が読みとおせない若者が増えているそうだが、そのうちラジオが聞けない世代が登場するかも知れないと思うと恐ろしい。(2004.11.18)
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報道の品格は、その公明さにあると思う。伝える側の主観の混じったコメントは聞いていて気持の良いものではない。最近ある事件で逮捕された容疑者の人物像を伝える際に、某テレビ局のレポーターは容疑者が「夜な夜な町に繰り出して」いたり、「高級外車を乗り回して」いたと伝えていた。あまりにも主観の入りすぎた下品な表現だと私は感じた。いかにも、不正な手段で金儲けをし、金遣いが荒かったから、こんな事件を起こした犯人に間違いないと言わんばかりの断じ方である。これが、「夜の外出が目立った」とか「しばしば外国車を運転していた」などという表現だったら、視聴者に与えるイメージはかなり異なっていただろう。いわゆる報道番組ではなく、ワイドショーと呼ばれる類の番組だったから、番組制作側の意図もあるだろう。そんな番組を見るなと言われればそれまでだし、ワイドショーにそこまで求める方がおかしいと言われれば、それも全くその通りなのだが、公共の電波を通じて、下品な日本語が垂れ流しされるのは、やはり許しがたいと思ってしまうのだ。(2005.7.2)
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決まりきった言い回しは、すらすらと口をついて出るものだが、時として、よく考えてみると、事実とは合わない、あるいは事実をとてつもなく誇張して表現していることに気づく。たまたま今日Webで芸能ニュースを見ていたら、映画の公開初日に、主演俳優たちが舞台挨拶をおこなったという記事があった。そこに、主題歌を歌った歌手がゲストとして「駆け付けた」と書かれている。この「駆け付ける」は、特にテレビ番組などでもよく使われる言葉だが、ちょっと誇張が過ぎるのではないだろうか。広辞苑によれば、「駆け付ける」とは、「駆けて到着する」「急いでその場所に着く」という意味だ。急な場合でもないのに、こんな言い方はおかしいと思う。「ゲストが来てくださいました」と言うより、「ゲストが駆け付けてくださいました」と言うほうがインパクトがあるように聞こえるため、多用されるようになったのだろう。私には耳障りで仕方がない。(2007.8.4)
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落とし紙という言葉が、家族との会話で出てきて、ふと、これはもう若い人には通じない言葉ではないかと感じて、Webで調べてみた。すると驚くことに、料理のレシピの説明文の中に「落とし紙」という用語が出てくるではないか!私の知る限りでは、「落とし紙」とはトイレのちり紙、つまり用便のあとに拭く紙のことだ。広辞苑、国語辞典などを引いても、その語彙しか出ていない。料理用語としては、紙の「落とし蓋」の意味で使っているのだが、これはいくらなんでもあんまりだ。しかも個人の書いたブログなどではなく、テレビの料理番組の解説ページにもあるのだから、開いた口がふさがらない。どんなに言葉が変遷しようと、トイレ関係の用語を料理の用語に転化させてはもらいたくない。(2010.10.22)