Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.1 ) |
- 日時: 2020/02/01 17:55
- 名前: てふママ
- 森青蛙さん、ようこそ。
何も先入観を持たずパッとフランス語だけを読んだ限りでは、chez以下はce voyage de quelques heuresに繋がるように読めますね。 chezは確かに「…の家で」という語義が辞書などには載っていますが、実際には日本語の助詞の「で」より意味は広く、「…の家に」「…の家への」など様々な繋がり方が可能なのです。さらに「家」とは限りません。この場合は造兵廠かもしれません。
次に句読点の打ち方です。que vous m'avez autorisé à faire à Yokohamaの前後にカンマがあります。つまり、関係詞節であるこれが、挿入された部分であると解釈するのが普通です。すると読み方としては... ce voyage de quelques heures chez mon camarade... (我が学友のところへの数時間の旅)という繋がりがあると読むのが一般的かと思います。
また「ヴェルニー君の横浜の自宅において貴殿がお認め下さった」という解釈は少し無理があります。「横浜で認めた」ならfaireがあるのは不思議です。「私に横浜でおこなってよいと許可をくださった」だと思います。
この人物は横浜にいて、造兵廠(おそらく横須賀?)の友人を訪ねたいと上官に許可を求めたのではないでしょうか。
結論としては、直訳ですが「貴殿が、わが学友にして造兵廠の責任者であるヴェルニーのもとへの数時間の旅を横浜でおこなってよいと許可をくださったので、それを口実として私はまったく異なる目的地に向かいます」というような意味になるのではないでしょうか。
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.2 ) |
- 日時: 2020/02/01 21:51
- 名前: 森青蛙
- てふママさま
アドバイスありがとうございます。 納得できました。 アドバイスに従い、翻訳をもう少し練り直します。
しかし、思い切ってお尋ねしてよかったです。 もし最初の訳のままで行っていたら、とんだ恥をかくところでした。
なお、この手紙を書いたのはジュール・ブリュネと言って、幕末、徳川幕府の招聘で来日し、幕府陸軍の軍事指導をしていた人物です。 徳川幕府瓦解後、フランス政府は帰国命令を出しましたが、それに逆らってあの榎本武揚らと行動を共にした人物です。 その決意を認めたのが、この手紙ということになります。 大変魅力的な人物で、いろいろ調べてはいるのですが、フランス人ということがネックになって、なかなか苦戦しているというのが実情です。 アメリカ人やイギリス人なら、私の語学力でもなんとかなるのですが……。
ともあれ、今回は本当にありがとうございました。
森青蛙
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.3 ) |
- 日時: 2020/02/02 09:09
- 名前: 森青蛙
- てふママさま
一晩、いろいろ考えてみましたが、もう一度質問させて下さい。 たとえば、件の文章を下記のように改めた場合ですが、
Sous prétexte de ce voyage de quelques heures, que vous m’avez autorisé à faire à Yokohama, je pars pour une destination tout autre.
この場合の翻訳としては
貴殿が、横浜でおこなってよいと許可をくださった数時間の旅を口実として私はまったく異なる目的地に向かいます
となりますよね。 この文章にchez mon camarade d’école Verny, directeur de l’arsenal franco-japonaisが挿入されていると理解して、
貴殿が、横浜(のわが学友にして造兵廠の責任者であるヴェルニーの家)でおこなってよいと許可をくださった数時間の旅を口実として私はまったく異なる目的地に向かいます
と解釈することは、文法的には無理なんでしょうか?
この手紙を書いたのはジュール・ブリュネという人物であることは既にご説明しましたが、実はブリュネが隊を脱走した経緯については、全く異なる経緯を記したある日本人の証言が伝えられていて、一般には(あるいは、日本では、と言い換えた方がいいかもしれません。日本人の証言はフランスには伝えられていないようなので)日本人の証言に沿って記述されるというかたちになっているようです。
しかし、当のブリュネが書いていることを無視するというのも妙な話で、今回、ブリュネ書簡の原文と睨めっこしていたら、件の文章を上に記したように解釈するならば、日本人の証言との間の矛盾を埋め合わせることができることに気がつきました。 これについては、相当に込み入った話になるので、ここでは記しませんが、とにかく、そういう可能性が出てくるということです。
そういう事情ですので、いささかしつこく質問させていただいているとご理解下さい。 お手数ですが、上で私が記したような解釈をすることは、文法的には可能なんでしょうか、無理なんでしょうか? この点、もう一度アドバイスいただければ幸いです。
森青蛙
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.4 ) |
- 日時: 2020/02/02 23:33
- 名前: てふママ
- そうですね…à Yokohamaだけは、autoriséにかかる可能性はあると思います「貴殿が、おこなってよいと横浜で許可をくださった、わが学友にして造兵廠の責任者であるヴェルニーのもとへのこの旅行を口実として…」と読むことは可能だと思います。けれども「横浜のヴェルニーの家」は絶対にないと思います。文法的にどうのという判断ではありません。
例えは変ですが、私の読み取り方は、スポーツでいえば、ルールではなくセオリーだというのに近いと思います。どう解釈するのが自然かということになります。 消去法になってしまいますが、もし許可をもらったのがヴェルニー宅だとすれば、ブリュネの上官はそこにいたわけですから、ことさらヴェルニーのことを学友だとか造兵廠の責任者だとか説明するのは不自然に思えるので、chez以下はce voyageにかかると判断しました。それに、ヴェルニーは横須賀で働いていたので、横浜に家があるというのはどう考えても無理があると思われます。 この手紙はcapitaine Chanoine宛てのものですから、許可をくれた時Chanoineがどこにいたかがわかれば整合性がとれることになりますね。
ブリュネに関して私の読んだところでは「10月4日に、友人のヴェルニーが働いている横須賀の仏日造兵廠の訪問という口実で、ブリュネは横浜のフランス使節団舎を去った」とありますが(Le véritable dernier Samouraï : l’épopée japonaise du capitaine Brunet)気になっていらっしゃる日本人の証言は、これとは異なるということなのでしょうか?
最初に内容からしてブリュネの手紙だということはすぐわかりましたよ。私は新選組フリークなので(笑)ただ、細かいことまでは知りませんでしたので、とても興味深く思っています。研究の成果をお祈りしております。
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.5 ) |
- 日時: 2020/02/03 12:03
- 名前: 森青蛙
- てふママさま
そうですか。 てふママさまは新選組フリークでいらっしゃいましたか。 ブリュネが箱館からシャノワーヌに宛てた手紙には土方歳三の名前も記されていますね。
さて、ご指摘のフランソワ=グザヴィエ・エオン(カタカナ表記はこれでいいですよね?)の論文は私も読んでおります。 というか、この論文でブリュネの書簡を読んだことが事の発端なのです。
以下、若干込み入った話にはなりますが、説明いたします。
確かにご指摘の論文でフランソワ=グザヴィエ・エオンは「10月4日に、友人のヴェルニーが働いている横須賀の仏日造兵廠の訪問という口実で、ブリュネは横浜のフランス使節団舎を去った」と書いております。 しかし、これはブリュネ書簡の問題の下りを踏まえて書いているのではないかと思われます。 そして、ブリュネは「仏日造兵廠」としか書いていないのに、それを「横須賀の仏日造兵廠」としているのは、ヴェルニーが建造の指揮をしていた造兵廠は横須賀にあった、という歴史的事実に基づいているのだろうと思われます。
で、ヴェルニーが横須賀で造兵廠の建造に当っていたのはその通りですが、実は日本とフランスの合弁で建設されたのは横須賀造兵廠だけではなく、横浜でも、規模は小さいながら造兵廠を作っているのです。 ヴェルニーはこの横浜と横須賀の現場を行き来する便を図るため、専用の汽船も建造しています。
また、横須賀にはヴェルニーのために官舎が建てられていたことが日本側の資料でも裏付けられますが、実はヴェルニーは妻を伴って来日していました。 当時の横須賀がただの漁村だったことを考えるなら、はたして妻ともども官舎で暮していたかどうか。 妻だけは生活環境の整った横浜に住んでいたのではないか? その場合、ヴェルニーは横須賀の官舎とは別に、横浜に私邸を持っていたということになります。
もう一つ。 ブリュネが隊を脱走したのは旧暦の8月19日(新暦だと10月4日)ですが、8月1日にヴェルニーがかねて本国に発注していた「灯台用機械」が到着しています。 これを受けヴェルニーは明治新政府の役人に必要書類を提出して建設の裁可を求め、部下を観音崎に派遣して工事を始めさせています。 当然、これに関る明治新政府との折衝等は横浜で行ったはずです。 政府の出先機関があったのは横浜ですから。
こうした諸々の事実を踏まえるなら、事件当時、ヴェルニーが横須賀にいたと決めつけることはできません。 むしろ、横浜にいた可能性の方が高いのではないでしょうか? そして、そう想定した場合、件の文章を私がお示ししているような解釈をすることも可能なのではないか、ということなのです。
なお、ヴェルニーのことを学友だとか造兵廠の責任者だとか説明するのは不自然というご指摘ですが、 確かにこの書簡はブリュネがシャノワーヌに個人的に書いたものです。 しかし、現在、この書簡はフランスの軍事博物館に所蔵されていることからもわかるように、シャノワーヌを通して軍に提出されています。 ブリュネは、そうなることを想定して、あえて自身とヴェルニーの関係を説明している、というのが私の解釈です。 仮に8月19日時点でブリュネがヴェルニーの家にいたとするなら、ヴェルニーはブリュネの脱走に一枚噛んでいたということになります。 当然、脱走は重罪であり、ヴェルニーも責任を問われることになりかねません。 しかし、ブリュネとヴェルニーはエコール・ポリテクニークの同窓生であり、ヴェルニーは単にブリュネとの友情から若干の手助けをしただけで、罪に問われるような理由はない――と、暗に(軍の上層部に向かって)言っている、というのが私の解釈です。
以上、フランス文法質問箱という場所柄もわきまえずに長々と書き記しましたが、要は件の文章を
貴殿が、横浜(のわが学友にして造兵廠の責任者であるヴェルニーの家)でおこなってよいと許可をくださった数時間の旅を口実として私はまったく異なる目的地に向かいます
と解釈することは、文法的には可能かどうか、ということなんですが。 難しいですかねえ……。
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.6 ) |
- 日時: 2020/02/03 22:13
- 名前: てふママ
- いろいろ解説していただき、ありがとうございました。おっしゃることはとてもよくわかります。
それでも、私の読みは変わらないと申し上げておきましょう。 文法的には可能でも、私にはそうは読めないということですので、あとは森青蛙さんの判断です。
森青蛙さんのおっしゃるように「…シャノワーヌを通して軍に提出されています。ブリュネは、そうなることを想定して…」なら、尚更のこと、口実とする「この旅」の内容を説明するはずではないかと。どこで許可をもらったかより、許可の内容のほうが大切だと思うのです。もちろん軍の内規などよく知りませんし、こういう場合にはこう書くものだという判断するほどの知識はありませんが、シャノワーヌが部下が脱走したことで咎めを受けないように、シャノワーヌはブリュネに単に友達のところへ行っていいよという許可を出したにすぎないということを明確にしておきたかったのだろうと考えました。そうでないと、場所の説明がない単に「この旅」では、口実とするにはあまりにも弱過ぎる気がするのです。 さらにもうひとつは「まったく異なる目的地」という言い方です。何と異なるのでしょう?これはシャノワーヌに許可をもらったときに申告した行き先(ヴェルニーのところ)と異なるという意味ではないでしょうか。
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Re: chez以下がどこにかかるのか? ( No.7 ) |
- 日時: 2020/02/04 07:10
- 名前: 森青蛙
- てふママさま
わかりました。 それでは、この件はこのくらいにしておきましよう。
なお、「まったく異なる目的地」の件ですが、表向きの目的地は横須賀です。 その横須賀には神速丸という船が待機しており、ブリュネらはこの船で品川沖の榎本艦隊に合流しています。 いずれにしてもブリュネは横浜にいたわけですが、一体どうやって横須賀まで行ったのか? 私は、ヴェルニーが横浜と横須賀の間を行き来するのに使っていた蒸気船で行ったのだろうと考えています。 つまり、ヴェルニーの船で、ヴェルニーと一緒に横須賀まで行ったということです。 それ以外の方法で横浜から横須賀まで移動する方法があったかどうか?
いずれにしろ、今回は大変お世話になりました。 フランス語文法の質問箱という場所柄をわきまえず、長々と歴史談義を繰り広げたことを反省しております。 お詫びかたがた御礼とさせていただいます。
森青蛙
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